もやもやブログ

多摩美術大学グラフィックデザイユーチューブとファッションとお絵描きと時事人をネタにします。

ファッションバイヤーMBさんの言葉「客観性のある差別化」を絵描き、プロジェクトメンバーとして考えてみる

 

MBさんの言葉「客観性のある差別化」

客観性のある差別化がカッコいい、先端を行ってる、オシャレと思われるもの。
客観性のない差別化は奇をてらっただけ、変なもの、ダサい、と言われるもの。
客観性があるかないかで正反対に受け取られ方が違う。

では客観性があるとはどういうことか?

今この時代のこの瞬間の一般の感度が高い人がなるほどね、そうだよねイケてるよねと感じる、納得することか?本当に感じるか?その上で出来ている差別化か?ということである。
だがモノを作っている者は自身ほど、当事者に近いほど客観的判断が出来なく難しくなっていく。
判断を誤る。
自分が関わっているほどのめり込んでいて主観的にしか見れないようになるからだ。
これだけ頑張って作り込んだんだからこれは価値があるもののはずだ、クオリティが高いはずだと思い込んでいる。
思い込みたくなっているからだ。

それはただの自分の願望。
自分が苦労して労力をかけたモノだからあるいは身内、仲間の同僚も時間をかけて手がけてくれたモノだから判断が鈍くなる、甘くなる。
訓練をしてなければ人間としては当たり前の感情ではある。

しかし絵描きの勉強した者なら誰でも分かる。

そんなことは関係ない。
自分の作品をどれだけ自身が冷酷に客観視出来るか、どれだけ時間をかけて労力をかけて魂を入れて作ったもの、凄いアイデアを思いついたと思ってやっとのことで形に出来たもの、それをこれはゴミだと判断出来る力を付ける訓練、自分が自分に甘くなっている狂いを正す訓練が最初に勉強するデッサンだからだ。
主観的にのめり込んで思い込んで作るのは素人でも初心者でも誰でも出来る。
自分は誰より命をかけて作っている、人生をかけている、と思い込んで作るのは勝手だ、言うのは簡単、誰にでも出来る。
端から見ればそれは誰でもやるレベルで普通で平凡だ。
結果にはまず出ない。
自分は頑張ったという自己満足レベルの結果にしか達しない。

客観性が少ない人間ほど無駄な努力と時間が多くなる、客観と主観の切り替えが下手でバランスが悪く偏りがあり非効率である。
せっかくのエネルギーが的に向かっていないなら意味がない。

例えば会社でがむしゃらにずっと机にへばりついている。
会社にいる時間が長くてライフワークバランスがワークに偏っている。
そんな人ほど客観的判断力や時代感覚を失っている。
あんなに頑張ったのに労力をかけたのに魂込めたのになぜもっと評価されない?と思う。

簡単に言えばズレているから。

旬のものこれからくるものに気づけないほど偏って疲れているアンテナがものすごく弱って生きているから。
労力と評価を正比例で結び付けたくなるのが人間、実際はそう簡単にはいかない。
評価が出来る能力者は作り手ではなくクライアントでもない。
ユーザーが一番客観視できている。
作り手がどんなに時間と労力と魂をかけようが無関係な立場にいるからだ。
そんなものをユーザーは知らない、どうでもいいからだ。
自分達が求めているものと少しでもズレがあれば要らないものだからだ。
ただ金を払う価値があるか自分の貴重な時間を割く価値があるかどうか、しか判断しないからだ。
そこに作り手の想いと思い込みは入っていない。
だから一番まともに正確な判断と評価と結果を示してくれる。
一番客観的判断をシビアに下している。
作り手はユーザーの声と数字をみることが何より大事。
作り手の想いと努力を受け取れるかは当然ユーザーの自由。
結果が芳しくないのに努力したことに満足しているのはズレている。
そしてメンバーの労力と精神と時間を無駄にしている。

 

凄く頭を使って手間をかけて時間をかけて作った思い入れのあるモノが大して売れない。

他所のヒット作をパクってちょちょっと手を入れたようなものの方が全然売れた。

勘違いしてはいけない。

その時に価値がある方が売れたのだ。

 

ニッチな層、玄人受けを狙ったなどとリーダーが言い訳してはいけない。

少なくとも全メンバーの心も懐も豊かにならなかったのならばそれはリーダーの狙いが的から外れていたブレていたという失敗だ。

それを言い訳をするなら一生それ以上の結果は出ない。

リーダーは自業自得でしかないがメンバーは関わったことが不幸でしかない。